ー Bokusen-ji,temple ー

   "Bokusen-ji" temple is very close to my house.  The temple is famous for beautiful cherry blossoms in spring. Every year, I enjoy the cherry blossoms blooming there. It is so lucky for me to be able to see the beautiful blossoms.
 

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  Actually, I don't like flowers like tulips, roses, cyclamens, and so on.  I can't endure to see flowers put in vase, especially in my room! They are too bustling to see in the small room except "Chashitsu," tea-ceremony room. However, I like cherry blossoms, white magnolia, willow trees because they are trees.

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  Now back to the temple's topic.  It has great history. Ancient Japanese poets composed and left many tanka poetries,  Japanese poem of thirty-one syllables, including the word, "Sumizome," which is another way of reading the "Bokusen."  And then we know the district and streets around the temple have ancient history.

  ー 墨染寺(ぼくせんじ) ー

   墨染寺は平安時代の874年に、第56代・清和天皇の勅願を受けた太政大臣・藤原良長が創建した「貞観寺(じょうかんじ)」に始まるのだとか。その後、安土桃山時代には豊臣秀吉が土地を寄進し、大僧都・日秀上人が日蓮宗・墨染桜寺(ぼくせんおうじ)として再興したと言われている。

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現在の場所へは江戸時代に移され、 お寺のある墨染(すみぞめ)という地名の由来にもなっている。
 墨染の地名は、日蓮宗「墨染寺(深草山墨染寺、桜寺)」(ぼくせんじ)という寺院に由来する。

  ー 墨染 ー

  私が住んでいる深草墨染(ふかくさ・すみぞめ)は、長い歴史のある地だ。
遠い昔の和歌にも歌われている。最も有名なのは、

 古今和歌集第16巻832

上野岑雄(かむつけのみねを)の歌

 「深草の 野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは 墨染めに咲け」

「墨染めに咲け」の「墨染め」とは、 上野岑雄が藤原基経の死を悼んだ歌で、喪服・僧衣の色で、悲しみを表している。

  ー深草少将・百夜通いー

  この歌に出てくる「深草」は、深草少将の深草で、「小野小町に熱心に求愛するが。小町は彼の愛を鬱陶しく思っていたため、自分の事をあきらめさせようと『私のもとへ百夜通ったなら、あなたの意のままになろう』と彼に告げる。それを真に受けた少将はそれから小町の邸宅へ毎晩通うが、思いを遂げられないまま最後の雪の夜に息絶えた。」という何とも切ない「百夜通い(ももよがよい)」の逸話で有名だ。

  ー「墨染」が詠まれる歌ー

   他にも、

 世にふれど君におくれてをる花はにほひて見えず墨染にして (和泉式部)
 墨染に咲かぬもつらし山桜花はなげきの外の物かは (平親世[新後撰])
 墨染に咲かぬ桜もこの春は心あればや露けかるらむ (惟宗光吉)

  このように、墨染という言葉が使われた歌がある。

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  ー宿場町・撞木町ー

   墨染という地は、京街道、奈良街道、伏見街道が交差し、宿場町として栄えた。この事もあり、1699年(元禄12年)、茶屋株(お茶屋の営業権)が墨染の南部(現在のインクライン(琵琶湖疏水)の伏見新放水路の西側)で許可される。そこから、撞木町(しゅもくちょう)の花街が生まれ、忠臣蔵でおなじみの大石内蔵助もここの廓でも遊んだ伝説が語り継がれている。
 天保の改革による取締りを受け、茶点女(ちゃたておんな、茶店で接待する女性)や飯盛女(めしもりおんな、旅籠で接待し売春をする娼婦のこと)を抱えることを禁じられたが、すぐに再開された。

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   <墨染寺の楓>


  ー墨染の今ー

 1878年(明治11年)、芸妓3名、娼妓11名の存在が確認されている。

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  <写真は涼しげに下がる鎖樋>

 しかし、花街としての墨染は衰退していくようになり、1911年(明治44年)頃、前年(1910年(明治43年))に開通した京阪電車によって客足がなくなり、大正時代に入り自然消滅した。
 なお、2018年現在、周辺は住宅地となり、大正時に当時の関係者たちによって建立された記念碑と、栄えていた当時から存在する門柱と祠が現存している。


  ー 英語のカッパープレート体やカーシブライティング −

  Copperplate and Cursive writing of English alphabets are excellent.  As a matter of fact, I'm training them in order to write fine letters in English. One of my acquaintances is marvelous writer of English.  He is always training his letter-writing, nevertheless he has already mastered very fine writing skill.  His writing is terrific!

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  Then I was wondering what is most beautiful writing of Japanese character.  "Sousho," or cursive style of writing Chinese characters and "Hiragana" with "Mouhitsu," or writing brush are the ones I found most beautiful. However, "Mouhitu," writing brushes are inconvenient because those need so many tools.  At last, I decided to train "Sousho" with fountain pens. 
  These works are "Tanka," Japanese poem of thirty‐one syllables I wrote today. (The picture above is Mr.Iwata's)


      

  ー 万年筆で書いてみた。 −

 英語のカッパープレートや筆記体は美しい。知人の一人に英語をすごく美しく書く人がいる。十分に美しいと思うが、毎夜、英文を書くことを習慣にして練習していると聞いた。
 実は、私もカッパープレートやカーシブ・ライティングの練習をしている。
 日本語はどうだろうと考えた時、どうしても毛筆で書かれた古書が頭に浮かぶ。毛筆で書くのには、墨や硯を用意しなければならない。筆ペンでは、本当の毛筆の味は出ない。
 そこで、万年筆で草書や変体仮名を使って、なんとか日本語の美しさを表せないものかと思い及んだ。

    ー 短歌 ー    (注:スマートフォンで近くを撮ると、写真が台形に写る。)

   樋口一葉
 「われは左(さ)は 恋寸(す)る身なり人ごと二(に) 幾介(きけ)る可(が)如き
  物おもひそふ」
    万年筆:ファーバーカステル・クラシックコレクション・ペルナンブコ(EF)

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  与謝野晶子

「みだれ髪 京の島田にかへし朝 ふして以(い)ませの 君ゆりおこす」
   万年筆:モンブラン・ヘリテージコレクション・ルージュ・エ・ノワール (M)

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  ー 藤森神社 ー


 家が藤森神社の近くにあるので、子供の頃から慣れ親しんだ所だ。子供のころは、こう言っては失礼だが、綺麗な神社というイメージを持っていなかった。

 小学校も近かったので、この神社で遊んだり、ここを通り抜けて家に帰ったりしていた。私は、あまり伏見稲荷が好きではない。というのは、小さな頃、父からこう聞かされていたからだ。「稲荷はな、藤森さんに米俵一俵分の土地をくださいと言って、その米の苗を一本づつ四角に土地を囲うように植えて、広大な土地を藤森神社から奪ったんだよ。」

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 子供心にも、そのやり方に憤りを感じたのを覚えている。賢いなぁと感心はしなかった。どうしても、今は繁栄の盛りに思える伏見稲荷と比較して、藤森神社の方が好きだ。昔はなかった行事ができたり、竹藪だった土地は綺麗に整備されて、今は昔の面影はない。しかし、ここに来ると何故かほっとする。

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 今朝は早くに散歩に出かけた。陽は昇りかけていたが、まだ夜の明け切らないうちに行くと空気が澄んでいて気持ちが良い。早くもお参りに来ている人もいる。竹箒で境内を掃除するご老人、刈込み鋏で枝の剪定をする人たちに挨拶をすると、「おはようございます」と丁寧に返していただける。

 カメラを構えても、何事でもないように見過ごしていただけるのが、返って嬉しい。そんな今朝の散歩だった。

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<以下、ウィキペディアより引用>

藤森神社(ふじのもりじんじゃ)は、京都府京都市伏見区深草に鎮座する神社である。旧社格は府社。

5月5日に行われる駈馬神事や、菖蒲の節句の発祥地として名高い。6月から7月にかけて紫陽花苑が公開され、3,500株にもおよぶ紫陽花が見もの。


                         「藤森神社」へのリンク



  ー 歴史 ー

 
創建年代や祭神には諸説ある。社伝では、神功皇后摂政3年(203年)、三韓征伐から凱旋した神功皇后が、山城国・深草の里の藤森に纛旗(とうき、いくさ旗)を立て、兵具を納め、塚を作り、祭祀を行ったのが当社の発祥であるとしている。当初の祭神は、現在本殿に祀られる7座であった。藤森の地は現在の伏見稲荷大社の社地であったが、その地に稲荷神が祀られることになったため当社は現在地に遷座したと言われている。そのため、伏見稲荷大社周辺の住民は現在でも当社の氏子である。なお、現在地は元は真幡寸神社(現・城南宮)の社地であり、この際に真幡寸神社も現在地に遷座した。

本殿は東・中・西殿の三座から成る。

東殿は、天平宝字3年(759年)に藤尾の地に崇道尽敬皇帝(舎人親王)を祀る神社として創建されたもので、元は藤尾社と称していた。永享10年(1438年)に当社に合祀された。

中殿は正徳2年(1712年)に中御門天皇より下賜された宮中内侍所であり、現存する賢所としては最も古い。

西殿は、延暦19年(800年)に早良親王を祀る神社として塚本の地に創建され、文明2年(1470年)に当社に合祀された。早良親王は生前当社を崇敬していた。陸奥で反乱が起こったとき、早良親王は征討将軍となり当社に詣でて戦勝を祈願した。その出陣の日が5月5日で、これが現在の駆馬神事の元である。


本殿の左右後方にそれぞれ末社の八幡宮、大将軍社の社殿があるが、永享10年(1438年)の建築当時はは本殿と並んで一列に建っていたと見られている。

吉田兼倶の「藤森社縁起」、あるいは『拾遺都名所図会』巻五[6]等によると、光仁天皇の天応元年(781年)、に異国の蒙古が日本へ攻め寄せ、早良親王が大将軍となり率いた軍勢がこれを退けたが、その際当社に祈願したことより当社に弓兵政所の異名がつき[2]、また境内にある蒙古塚は、この時の蒙古軍の大将の首を埋めたものと伝わる。

拝殿のそばに「むらさきの 雲とぞよそに 見えつるは 木高き藤の 森にぞありける」という待宵の小侍従作の歌碑があり、古に藤の叢林があったと思われる。

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  ー 特色 ー

 

駆馬や菖蒲→尚武・勝負の連想、武神が多く祀られていること、また明治時代から第二次世界大戦終了まで周辺が軍用地であったことから、馬と武運の神社として信仰を集めた。現在は馬と勝負事の神社として知られており、競馬関係者・ファンの信仰を集めており、競走馬の絵馬が多数奉納されている。また舎人親王を祀ることから学問、特に受験での勝運をもたらす神社とされる。神社の森は東隣にある京都教育大学の豊かな樹木群に連なっており、一体化した森のようになっている。
藤森神社の氏子の居住範囲は藤森神社周辺から北側へ、伏見稲荷大社周辺を含みJR京都駅近くまで広がっている。このため伏見稲荷の氏子が多く居住するのは本体の稲荷社の周辺ではなく京都駅より西のJRの南北の区域となっており、この点に関して「もともと藤森神社があった土地に後から伏見稲荷が来た」という内容の説が多数残っており、上記神輿の伏見稲荷境内への巡幸もこの説を根拠の一つとなっている。

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  ー 夜の鴨川 −

      祇園祭の山鉾巡行も終わり、落着きを取り戻した京都。やはり、この静けさが良い。夜の宮川町もしっとりとした静寂の中に、美しく澄んだ三味の音が聞こえて来る。鴨川も見慣れた流れになって、川面に映る灯が綺麗だ。夜の帳が下りると昼間には見えなかった風景が人々の目を魅了する。

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「京の夜」と呼ぶに相応しいところを、カメラに収めた。



     − 京の花街 −

 京都には、6つの花街がある。上七軒、祇園甲部、祇園東、嶋原、先斗町と宮川町だ。いわゆる京都の六花街と呼ばれる所だ。嶋原以外の京都花街組合連合会に加盟している5つを総称して五花街と呼ぶこともある。しかし、京都で一般には、祇園甲部、上七軒、宮川町の順で知られており、「京の花街は3つある」と思われている。
 事実、他の3箇所は花街とは言えない向きがある。嶋原は、江戸の吉原と比較される遊郭だった。江戸時代には現在の東本願寺の北辺りにあった廓(くるわ)が1641年(寛永18年)に現在のJR丹波口、中央卸売市場近くに移転された。「島原太夫」(漢字が違う)は有名で、今も嶋原には芸妓や舞妓が行き来するので、関係者は遊郭と思われるのを嫌がり、花街と呼んでいる。しかし、やはり遊郭のイメージは払拭できずにいると私は思う。

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 忠臣蔵で有名な大石内蔵助が山科から通った2つの遊郭、「橦木町」と「一力」も有名だ。「橦木町」はその痕跡を石柱の碑に残すだけになり、「一力」の方は、現在、京都で最も格式の高いお茶屋(芸妓を呼んで遊ぶ店)の一つとして知られている。ちなみに、私の住む京都の墨染は橦木町に近い。私が小さな頃は昔の遊郭の跡が多く残っていた。

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 先斗町は、「ぽんとちょう」という読み方が京都らしいが、今はかつてのお茶屋が町屋風カフェやダイニングに変わり、かつての風情はなくなっている。少なくとも20年前までは、花街と呼ぶに相応しい風情があった。今や若者の歓楽街に成り下がっていると思う。確かに、数件の店には芸妓や舞妓が今も出入りはするが。稲荷大社や清水寺が観光地になってしまったのと同じ巡り合わせを辿っている。
 花街の話になれば切りがないので、ここまでに留める。また、京都の地名についても別の機会に紹介したい。
 さて、結論から言えば、私は宮川町が一番好きだ。祇園が観光地になり、せっかく風情のあるお茶屋さんも、観光客の多さと派手な服装で、先斗町と同じ運命を辿るのではないかと危惧する。しかし、先斗町と違うのは町屋を改造して入る店が違うことだ。ライカ京都店やHUBLOT(ウブロ、スイスの高級腕時計)京都店などが、その象徴的存在だ。入っても値段を見た途端に店を出る人が多い。格式だけは守られると期待している。

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 縷々綿々と書いてきたが、宮川町は今も、昔の祇園や先斗町、上七軒の風情をそのままに、昔ながらの花街らしい。石畳の路地のような道の両側にしっとりとしたお茶屋さんや料亭が並んでいる。観光客も何故かここでは見ない。ほっとする京都の町通りだ。



  ー インクも多種多様 ー

  10年ほど前にパイロット社が色彩雫という名前の特別なインクを3色売り出した。今では、この色彩雫シリーズは24色に増えている。セーラー社やプラチナ社も、これに続いて多種多様なインクを売り出している。極めて廉価であり、機能は優秀な万年筆が売り出されるようになり、万年筆を愛用する若い人たちが増えている。様々な色のインクを楽しむようだ。その土地のご当地インクや、名所旧跡を名前にしたインクも随分増えた。万年筆売り場は色とりどりのインクで溢れている。
インクと言えば、色褪せしにくい顔料インクと濃淡が出る染料インク、それにヨーロッパでは9世紀頃から使われてきた没食子(もっしょくし)インクがあるが、それぞれに特性があり、使われ方も違っていた。


  ー 毛筆で書いてみた ー

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 最近は、万年筆を使う年代も幅広くなり、又、極めて廉価の万年筆も売り出されて、ますます多くの人が万年筆を使い、主に若い者をニーズに合わせて各社が競って新色のインクを出すようになった。国内外を問わず、老舗万年筆メーカーも実に様々な色を出すようになった。今や、万年筆はインクの色を楽しむ時代になったのかもしれない。

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 かく言う私は、昔ながらにインクは青が黒と決めていると言ってもよい。しかし、実は用途によって、茶色と緑のインクも使う。インクの色は書いている時に、また、後で見たときに「うるさくない」というのが私の信条だ。





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 写真に写したインクはどれもモンブランショップで頂いたものだが、万年筆に入れる気持ちにはならない。
 貰っておいて申し訳ないが、使わないだろうと思っていたが、筆に使ってみると面白いのではないかと思い、書いてみた。老いの楽しみとしては悪くない。


 橙色は、モンブラン・ラッキーオレンジ
 青は、モンブラン・ユニセフ・コレクション


 歳をとるほどに、着る服や身につける物を心がけて老いを感じないように、限界を超えない程度に色も考えるようになった。そんな思いもあって、貰ったインクを思い出したのだと思う。

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