藤森神社

  ー 藤森神社 ー


 家が藤森神社の近くにあるので、子供の頃から慣れ親しんだ所だ。子供のころは、こう言っては失礼だが、綺麗な神社というイメージを持っていなかった。

 小学校も近かったので、この神社で遊んだり、ここを通り抜けて家に帰ったりしていた。私は、あまり伏見稲荷が好きではない。というのは、小さな頃、父からこう聞かされていたからだ。「稲荷はな、藤森さんに米俵一俵分の土地をくださいと言って、その米の苗を一本づつ四角に土地を囲うように植えて、広大な土地を藤森神社から奪ったんだよ。」

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 子供心にも、そのやり方に憤りを感じたのを覚えている。賢いなぁと感心はしなかった。どうしても、今は繁栄の盛りに思える伏見稲荷と比較して、藤森神社の方が好きだ。昔はなかった行事ができたり、竹藪だった土地は綺麗に整備されて、今は昔の面影はない。しかし、ここに来ると何故かほっとする。

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 今朝は早くに散歩に出かけた。陽は昇りかけていたが、まだ夜の明け切らないうちに行くと空気が澄んでいて気持ちが良い。早くもお参りに来ている人もいる。竹箒で境内を掃除するご老人、刈込み鋏で枝の剪定をする人たちに挨拶をすると、「おはようございます」と丁寧に返していただける。

 カメラを構えても、何事でもないように見過ごしていただけるのが、返って嬉しい。そんな今朝の散歩だった。

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<以下、ウィキペディアより引用>

藤森神社(ふじのもりじんじゃ)は、京都府京都市伏見区深草に鎮座する神社である。旧社格は府社。

5月5日に行われる駈馬神事や、菖蒲の節句の発祥地として名高い。6月から7月にかけて紫陽花苑が公開され、3,500株にもおよぶ紫陽花が見もの。


                         「藤森神社」へのリンク



  ー 歴史 ー

 
創建年代や祭神には諸説ある。社伝では、神功皇后摂政3年(203年)、三韓征伐から凱旋した神功皇后が、山城国・深草の里の藤森に纛旗(とうき、いくさ旗)を立て、兵具を納め、塚を作り、祭祀を行ったのが当社の発祥であるとしている。当初の祭神は、現在本殿に祀られる7座であった。藤森の地は現在の伏見稲荷大社の社地であったが、その地に稲荷神が祀られることになったため当社は現在地に遷座したと言われている。そのため、伏見稲荷大社周辺の住民は現在でも当社の氏子である。なお、現在地は元は真幡寸神社(現・城南宮)の社地であり、この際に真幡寸神社も現在地に遷座した。

本殿は東・中・西殿の三座から成る。

東殿は、天平宝字3年(759年)に藤尾の地に崇道尽敬皇帝(舎人親王)を祀る神社として創建されたもので、元は藤尾社と称していた。永享10年(1438年)に当社に合祀された。

中殿は正徳2年(1712年)に中御門天皇より下賜された宮中内侍所であり、現存する賢所としては最も古い。

西殿は、延暦19年(800年)に早良親王を祀る神社として塚本の地に創建され、文明2年(1470年)に当社に合祀された。早良親王は生前当社を崇敬していた。陸奥で反乱が起こったとき、早良親王は征討将軍となり当社に詣でて戦勝を祈願した。その出陣の日が5月5日で、これが現在の駆馬神事の元である。


本殿の左右後方にそれぞれ末社の八幡宮、大将軍社の社殿があるが、永享10年(1438年)の建築当時はは本殿と並んで一列に建っていたと見られている。

吉田兼倶の「藤森社縁起」、あるいは『拾遺都名所図会』巻五[6]等によると、光仁天皇の天応元年(781年)、に異国の蒙古が日本へ攻め寄せ、早良親王が大将軍となり率いた軍勢がこれを退けたが、その際当社に祈願したことより当社に弓兵政所の異名がつき[2]、また境内にある蒙古塚は、この時の蒙古軍の大将の首を埋めたものと伝わる。

拝殿のそばに「むらさきの 雲とぞよそに 見えつるは 木高き藤の 森にぞありける」という待宵の小侍従作の歌碑があり、古に藤の叢林があったと思われる。

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  ー 特色 ー

駆馬や菖蒲→尚武・勝負の連想、武神が多く祀られていること、また明治時代から第二次世界大戦終了まで周辺が軍用地であったことから、馬と武運の神社として信仰を集めた。現在は馬と勝負事の神社として知られており、競馬関係者・ファンの信仰を集めており、競走馬の絵馬が多数奉納されている。また舎人親王を祀ることから学問、特に受験での勝運をもたらす神社とされる。神社の森は東隣にある京都教育大学の豊かな樹木群に連なっており、一体化した森のようになっている。
藤森神社の氏子の居住範囲は藤森神社周辺から北側へ、伏見稲荷大社周辺を含みJR京都駅近くまで広がっている。このため伏見稲荷の氏子が多く居住するのは本体の稲荷社の周辺ではなく京都駅より西のJRの南北の区域となっており、この点に関して「もともと藤森神社があった土地に後から伏見稲荷が来た」という内容の説が多数残っており、上記神輿の伏見稲荷境内への巡幸もこの説を根拠の一つとなっている。

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