ー 英語のカッパープレート体やカーシブライティング −

  Copperplate and Cursive writing of English alphabets are excellent.  As a matter of fact, I'm training them in order to write fine letters in English. One of my acquaintances is marvelous writer of English.  He is always training his letter-writing, nevertheless he has already mastered very fine writing skill.  His writing is terrific!

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  Then I was wondering what is most beautiful writing of Japanese character.  "Sousho," or cursive style of writing Chinese characters and "Hiragana" with "Mouhitsu," or writing brush are the ones I found most beautiful. However, "Mouhitu," writing brushes are inconvenient because those need so many tools.  At last, I decided to train "Sousho" with fountain pens. 
  These works are "Tanka," Japanese poem of thirty‐one syllables I wrote today. (The picture above is Mr.Iwata's)


      

  ー 万年筆で書いてみた。 −

 英語のカッパープレートや筆記体は美しい。知人の一人に英語をすごく美しく書く人がいる。十分に美しいと思うが、毎夜、英文を書くことを習慣にして練習していると聞いた。
 実は、私もカッパープレートやカーシブ・ライティングの練習をしている。
 日本語はどうだろうと考えた時、どうしても毛筆で書かれた古書が頭に浮かぶ。毛筆で書くのには、墨や硯を用意しなければならない。筆ペンでは、本当の毛筆の味は出ない。
 そこで、万年筆で草書や変体仮名を使って、なんとか日本語の美しさを表せないものかと思い及んだ。

    ー 短歌 ー    (注:スマートフォンで近くを撮ると、写真が台形に写る。)

   樋口一葉
 「われは左(さ)は 恋寸(す)る身なり人ごと二(に) 幾介(きけ)る可(が)如き
  物おもひそふ」
    万年筆:ファーバーカステル・クラシックコレクション・ペルナンブコ(EF)

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  与謝野晶子

「みだれ髪 京の島田にかへし朝 ふして以(い)ませの 君ゆりおこす」
   万年筆:モンブラン・ヘリテージコレクション・ルージュ・エ・ノワール (M)

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  ー 藤森神社 ー


 家が藤森神社の近くにあるので、子供の頃から慣れ親しんだ所だ。子供のころは、こう言っては失礼だが、綺麗な神社というイメージを持っていなかった。

 小学校も近かったので、この神社で遊んだり、ここを通り抜けて家に帰ったりしていた。私は、あまり伏見稲荷が好きではない。というのは、小さな頃、父からこう聞かされていたからだ。「稲荷はな、藤森さんに米俵一俵分の土地をくださいと言って、その米の苗を一本づつ四角に土地を囲うように植えて、広大な土地を藤森神社から奪ったんだよ。」

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 子供心にも、そのやり方に憤りを感じたのを覚えている。賢いなぁと感心はしなかった。どうしても、今は繁栄の盛りに思える伏見稲荷と比較して、藤森神社の方が好きだ。昔はなかった行事ができたり、竹藪だった土地は綺麗に整備されて、今は昔の面影はない。しかし、ここに来ると何故かほっとする。

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 今朝は早くに散歩に出かけた。陽は昇りかけていたが、まだ夜の明け切らないうちに行くと空気が澄んでいて気持ちが良い。早くもお参りに来ている人もいる。竹箒で境内を掃除するご老人、刈込み鋏で枝の剪定をする人たちに挨拶をすると、「おはようございます」と丁寧に返していただける。

 カメラを構えても、何事でもないように見過ごしていただけるのが、返って嬉しい。そんな今朝の散歩だった。

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<以下、ウィキペディアより引用>

藤森神社(ふじのもりじんじゃ)は、京都府京都市伏見区深草に鎮座する神社である。旧社格は府社。

5月5日に行われる駈馬神事や、菖蒲の節句の発祥地として名高い。6月から7月にかけて紫陽花苑が公開され、3,500株にもおよぶ紫陽花が見もの。


                         「藤森神社」へのリンク



  ー 歴史 ー

 
創建年代や祭神には諸説ある。社伝では、神功皇后摂政3年(203年)、三韓征伐から凱旋した神功皇后が、山城国・深草の里の藤森に纛旗(とうき、いくさ旗)を立て、兵具を納め、塚を作り、祭祀を行ったのが当社の発祥であるとしている。当初の祭神は、現在本殿に祀られる7座であった。藤森の地は現在の伏見稲荷大社の社地であったが、その地に稲荷神が祀られることになったため当社は現在地に遷座したと言われている。そのため、伏見稲荷大社周辺の住民は現在でも当社の氏子である。なお、現在地は元は真幡寸神社(現・城南宮)の社地であり、この際に真幡寸神社も現在地に遷座した。

本殿は東・中・西殿の三座から成る。

東殿は、天平宝字3年(759年)に藤尾の地に崇道尽敬皇帝(舎人親王)を祀る神社として創建されたもので、元は藤尾社と称していた。永享10年(1438年)に当社に合祀された。

中殿は正徳2年(1712年)に中御門天皇より下賜された宮中内侍所であり、現存する賢所としては最も古い。

西殿は、延暦19年(800年)に早良親王を祀る神社として塚本の地に創建され、文明2年(1470年)に当社に合祀された。早良親王は生前当社を崇敬していた。陸奥で反乱が起こったとき、早良親王は征討将軍となり当社に詣でて戦勝を祈願した。その出陣の日が5月5日で、これが現在の駆馬神事の元である。


本殿の左右後方にそれぞれ末社の八幡宮、大将軍社の社殿があるが、永享10年(1438年)の建築当時はは本殿と並んで一列に建っていたと見られている。

吉田兼倶の「藤森社縁起」、あるいは『拾遺都名所図会』巻五[6]等によると、光仁天皇の天応元年(781年)、に異国の蒙古が日本へ攻め寄せ、早良親王が大将軍となり率いた軍勢がこれを退けたが、その際当社に祈願したことより当社に弓兵政所の異名がつき[2]、また境内にある蒙古塚は、この時の蒙古軍の大将の首を埋めたものと伝わる。

拝殿のそばに「むらさきの 雲とぞよそに 見えつるは 木高き藤の 森にぞありける」という待宵の小侍従作の歌碑があり、古に藤の叢林があったと思われる。

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  ー 特色 ー

 

駆馬や菖蒲→尚武・勝負の連想、武神が多く祀られていること、また明治時代から第二次世界大戦終了まで周辺が軍用地であったことから、馬と武運の神社として信仰を集めた。現在は馬と勝負事の神社として知られており、競馬関係者・ファンの信仰を集めており、競走馬の絵馬が多数奉納されている。また舎人親王を祀ることから学問、特に受験での勝運をもたらす神社とされる。神社の森は東隣にある京都教育大学の豊かな樹木群に連なっており、一体化した森のようになっている。
藤森神社の氏子の居住範囲は藤森神社周辺から北側へ、伏見稲荷大社周辺を含みJR京都駅近くまで広がっている。このため伏見稲荷の氏子が多く居住するのは本体の稲荷社の周辺ではなく京都駅より西のJRの南北の区域となっており、この点に関して「もともと藤森神社があった土地に後から伏見稲荷が来た」という内容の説が多数残っており、上記神輿の伏見稲荷境内への巡幸もこの説を根拠の一つとなっている。

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  ー 夜の鴨川 −

      祇園祭の山鉾巡行も終わり、落着きを取り戻した京都。やはり、この静けさが良い。夜の宮川町もしっとりとした静寂の中に、美しく澄んだ三味の音が聞こえて来る。鴨川も見慣れた流れになって、川面に映る灯が綺麗だ。夜の帳が下りると昼間には見えなかった風景が人々の目を魅了する。

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「京の夜」と呼ぶに相応しいところを、カメラに収めた。



     − 京の花街 −

 京都には、6つの花街がある。上七軒、祇園甲部、祇園東、嶋原、先斗町と宮川町だ。いわゆる京都の六花街と呼ばれる所だ。嶋原以外の京都花街組合連合会に加盟している5つを総称して五花街と呼ぶこともある。しかし、京都で一般には、祇園甲部、上七軒、宮川町の順で知られており、「京の花街は3つある」と思われている。
 事実、他の3箇所は花街とは言えない向きがある。嶋原は、江戸の吉原と比較される遊郭だった。江戸時代には現在の東本願寺の北辺りにあった廓(くるわ)が1641年(寛永18年)に現在のJR丹波口、中央卸売市場近くに移転された。「島原太夫」(漢字が違う)は有名で、今も嶋原には芸妓や舞妓が行き来するので、関係者は遊郭と思われるのを嫌がり、花街と呼んでいる。しかし、やはり遊郭のイメージは払拭できずにいると私は思う。

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 忠臣蔵で有名な大石内蔵助が山科から通った2つの遊郭、「橦木町」と「一力」も有名だ。「橦木町」はその痕跡を石柱の碑に残すだけになり、「一力」の方は、現在、京都で最も格式の高いお茶屋(芸妓を呼んで遊ぶ店)の一つとして知られている。ちなみに、私の住む京都の墨染は橦木町に近い。私が小さな頃は昔の遊郭の跡が多く残っていた。

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 先斗町は、「ぽんとちょう」という読み方が京都らしいが、今はかつてのお茶屋が町屋風カフェやダイニングに変わり、かつての風情はなくなっている。少なくとも20年前までは、花街と呼ぶに相応しい風情があった。今や若者の歓楽街に成り下がっていると思う。確かに、数件の店には芸妓や舞妓が今も出入りはするが。稲荷大社や清水寺が観光地になってしまったのと同じ巡り合わせを辿っている。
 花街の話になれば切りがないので、ここまでに留める。また、京都の地名についても別の機会に紹介したい。
 さて、結論から言えば、私は宮川町が一番好きだ。祇園が観光地になり、せっかく風情のあるお茶屋さんも、観光客の多さと派手な服装で、先斗町と同じ運命を辿るのではないかと危惧する。しかし、先斗町と違うのは町屋を改造して入る店が違うことだ。ライカ京都店やHUBLOT(ウブロ、スイスの高級腕時計)京都店などが、その象徴的存在だ。入っても値段を見た途端に店を出る人が多い。格式だけは守られると期待している。

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 縷々綿々と書いてきたが、宮川町は今も、昔の祇園や先斗町、上七軒の風情をそのままに、昔ながらの花街らしい。石畳の路地のような道の両側にしっとりとしたお茶屋さんや料亭が並んでいる。観光客も何故かここでは見ない。ほっとする京都の町通りだ。



  ー インクも多種多様 ー

  10年ほど前にパイロット社が色彩雫という名前の特別なインクを3色売り出した。今では、この色彩雫シリーズは24色に増えている。セーラー社やプラチナ社も、これに続いて多種多様なインクを売り出している。極めて廉価であり、機能は優秀な万年筆が売り出されるようになり、万年筆を愛用する若い人たちが増えている。様々な色のインクを楽しむようだ。その土地のご当地インクや、名所旧跡を名前にしたインクも随分増えた。万年筆売り場は色とりどりのインクで溢れている。
インクと言えば、色褪せしにくい顔料インクと濃淡が出る染料インク、それにヨーロッパでは9世紀頃から使われてきた没食子(もっしょくし)インクがあるが、それぞれに特性があり、使われ方も違っていた。


  ー 毛筆で書いてみた ー

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 最近は、万年筆を使う年代も幅広くなり、又、極めて廉価の万年筆も売り出されて、ますます多くの人が万年筆を使い、主に若い者をニーズに合わせて各社が競って新色のインクを出すようになった。国内外を問わず、老舗万年筆メーカーも実に様々な色を出すようになった。今や、万年筆はインクの色を楽しむ時代になったのかもしれない。

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 かく言う私は、昔ながらにインクは青が黒と決めていると言ってもよい。しかし、実は用途によって、茶色と緑のインクも使う。インクの色は書いている時に、また、後で見たときに「うるさくない」というのが私の信条だ。





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 写真に写したインクはどれもモンブランショップで頂いたものだが、万年筆に入れる気持ちにはならない。
 貰っておいて申し訳ないが、使わないだろうと思っていたが、筆に使ってみると面白いのではないかと思い、書いてみた。老いの楽しみとしては悪くない。


 橙色は、モンブラン・ラッキーオレンジ
 青は、モンブラン・ユニセフ・コレクション


 歳をとるほどに、着る服や身につける物を心がけて老いを感じないように、限界を超えない程度に色も考えるようになった。そんな思いもあって、貰ったインクを思い出したのだと思う。

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  ー 京都・祇園祭 ー

 祇園祭と言えば、宵山と山鉾巡行が有名で、その数日が祇園祭だと思っている人も少なくないと思う。しかし、祇園祭は7月1日から31日まで、毎日、何らかの神事や行事があり、一ヶ月に渡る祭だ。京都の町衆の底力なしには、成り立たない日本の祭の代表中の代表とも言える。以下は、京都市観光協会に紹介されている主な行事であり、この他にも重要な神事や行事がある。

■ 吉符入  7月1日~神事始めの意味で各山鉾町において、町内関係者が本年の祇園祭に関する諸事打合せをする。

■ くじ取式 7月2日 山鉾巡行の順番をくじによってきめる式。

■ 神輿洗 7月10日午後8時頃、神輿3基のうち中御座の神輿をかつぎだし、四条大橋まで運び、鴨川の水で洗い清める。

■ 前祭 鉾建て・前祭 山建て 山建て 7月11日~14日 7月10日~11日各町では巡行の山鉾が収蔵庫から出されて組立てられる。 鉾の組立ては伝統の手法で行い3日間を要する。
(今年は豪雨のため日程が後に下がった。)

■ 山鉾巡行・前祭(さきまつり)巡行 7月17日午前9時 四条烏丸出発。23基の山鉾。四条烏丸 (午前9時00分) →四条河原町(9:35) → 河原町御池 (10:20) → 新町御池(11:20)

■ 後祭 山鉾建て 7月18日~7月21日 後祭の山鉾10基の組み立てが行われる。

■ 後祭(あとまつり)宵山7月21日~7月23日 山鉾の建てられている町内は車両通行止めとなりますが、四条通等の歩行者天国はありません。露店の出店はない予定です。

■ 山鉾巡行・後祭(あとまつり)巡行 7月24日午前9時30分 烏丸御池出発。10基の山鉾。

烏丸御池 (午前9時30分) →河原町御池(10:00) → 四条河原町(10:40) → 四条烏丸(11:20)

■ 花傘巡行 7月24日後祭の山鉾巡行が17日の前祭の山鉾巡行に合同した約50年前に、 山鉾の古い形態を再現するねらいではじめられたもので京都花街のきれいどころの踊、鷺舞、六斎念仏、子供神輿、祇園ばやし、稚児など総勢千人の行列がつづく。
 八坂神社(午前10時00分) →四条寺町 → 寺町御池(10:50) → 河原町御池 → 四条河原町→ 八坂神社(12:00)

■ 神輿洗7月28日10日の神輿洗と同様、四条鴨川で洗いきよめ、午後8時頃神社へかえる。

 <京都市観光協会HP提供>(クリックで拡大) Link:■□ 京都観光協会 □■

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     ー 鉾建て ー

 今年の鉾建ては、あの全国的に被害をもたらし、京都も鴨川が氾濫しそうだったほどの豪雨のため、鉾建ての日程が止むを得ず変わった。
 上の図にある鉾は、道具は使ってもガソリンエンジンや電力は一切使わず、すべて人力で建てられる。「鉾建て」は、京都人にとっては、見るのに十分値する壮観な光景だ。まず、土台を縄だけで組み立て、それを一旦横に寝かせて、鉾の中心を貫く「真木」を建てる。これも大きな縄を屈強な大人が数人かかって、引き上げる。暑い中の作業で、汗だくになりならが縄を引く姿に、見物客からも思わず、「頑張れー」の声が響く。大縄を引く人は、交代しながら真木を引き上げる。20分〜30分ほどかかって、真木を土台に入れ込むと、今度はそれを立たせる。繰り返すが重機など一切使わない。大変な作業だ。
 錦の綺麗な衣装を纏うまでは、見事に巻かれた縄が見える。この図を写真にする人も多い。煌びやかな鉾も本当に綺麗だが、言わば素のままの鉾も見事だ。様式美がある。

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鉾を組み上げる作業は、揃いの法被を着た男達の仕事だ。代々、口伝で伝えらたきた柱の位置、縄の巻き方、そして組み立ての順。一つでも間違えると鉾にはならない。

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 この他はすでに真木が備わっている。一本の真木が鉾を貫いていることがよくわかる。
 この鉾の周りには、立派な一眼レフを持った人たちが、地面に腰を下ろして盛んにシャッターを切っていた。

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 何と言っても、この真木を引き上げる瞬間だと思う。夕方とはいえ、まだまだ蒸し暑い京都。懸命に力を振り絞って真木を引き上げる。
 この瞬間を見ようと人集りができていた。縄を巻く歯車を力一杯回す男達と縄をたぐる男達。途中で、交代しなければ腕力と体力の限界に達する。見ている方も力が入る。見物客の多くから、「頑張れー、頑張れー」と声援が飛ぶ。
 派手ではないが、京都の力を感じる光景だ。













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